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オイルショック後の昭和50年、セメント・生コン両業界は生産コストが著しく上昇し、加えて不況による需要減から、生コン市況は低迷を続けており、生コン市況とセメント価格は連動するためセメントの市況も単独回復は事実上不可能でした。
生コンメーカーの大半が中小企業であり、採算割れに苦しむ当時のメーカーにとって、生コンの品質を維持しつつ安定供給を行う事が非常に厳しくなっていきました。
こうした状況の中で、通産省(現:経済産業省)は生コン品質の確保を図るため、生コン産業の体質改善を図るために組織強化を骨子とした「生コンクリート工業近代化6項目」を策定して強力な行政指導に乗り出しました。
この行政指導はセメント産業の安定化も視野に入れたもので、セメント業界にも協力を申し入れました。
こうして、セメント・生コンが一体となった生コン産業の協組化が進められ、昭和52年度になって東京地区、大阪地区の二大市場の協同組合がに結成されたのを始め、未組織の地区の協組設立が推進され、ほぼ全国を覆う協組組織網が形成されました。
この協組展開の全国化により生コン市況は正常に戻り、生コン・セメントメーカーの企業経営は危機を脱し、品質の高い生コンの安定供給が可能となりました。 |